帆聲の歴史HISTORY
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歴史を綴る
とある小宿の物語
2019年に開港850年の節目を迎えた尾道。
かつては北前船など大小の帆船が尾道水道を出入りして多くの人々が行き交い、賑いました。
ここ尾道で、幕末志士や伊藤博文に愛された料理宿『胡半(えはん)』を前身とした料亭『藤半』が令和2年12月 「全11室の料亭小宿」として生まれ変わりました。
歴史とともに名を変え、たくさんの人を迎え入れ、歩んできたこの地が「料亭小宿 おのみち帆聲」として、はじまるまでの物語をご紹介します。
vol. 01 ときは幕末
年号が「明治」へと変わる前年の事。倒幕軍の後詰めとして尾道に進駐していた芸州藩士と長州藩士は連日のように用談集会を行っていた。芸州藩士の事務方が記した「尾道表出張中日記」によると、彼らが集まって酒を飲みつつ遊興した施設の中のひとつが、花街新地で繁盛していた料亭旅館である胡半、別名「濤聲帆影楼」だった。胡半が歴史に登場するのはこの幕末からだが、安永3年(1774年)に描かれた屏風絵に記されている事からそれ以前にあったと想われ、たいそう古く格式のある店だった。
vol. 02 明治から大正
かつての尾道は海路海陸の拠点として栄え、大正4年発刊の『尾道案内』によれば、「古来商業の発達せると、風光明媚、気候優良なりとにより、旅客の往来頻繁を極め、宿屋業を営むもの百十三戸」と書かれているほど。また、当時の主要な移動手段であった人力車の総数は200台を有し、多くの劇場や寄席、料亭や遊郭などが軒を連ねたそうで、大変な隆盛ぶりがうかがえる。さて、濤聲帆影楼はというと、あの伊藤博文も宿泊して一夜を清遊するほど、尾道の中心的存在として繁盛していた。また、尾道は北前船の寄港地であった事から帆布が盛んに織られ、戦前・戦中はその生産もかなり多くなり、帆布工場も10社ほどもあったという。
vol. 03 月日流れて
時代は昭和10年頃の事。蕎麦屋を経営していた当時の所有者、加藤對山から濤聲帆影楼を受け継いだ息子の慶一郎が店名を料理旅館「藤半」と改名し、再び尾道の華やかなりし時代を象徴する晴れの舞台に押し上げた。しかし、太平洋戦争が勃発すると経営は難しくなり、戦後は進駐軍に接収されてダンスホールに。その後も、当時俗にいわれた花嫁学校として利用されたり、文化会館になるなど、濤聲帆影楼は時代の波に翻弄されていった。
vol. 04 昭和58年
昭和58年(1983年)、加藤家4代目の實氏がフランス料理の修行から帰郷し、日本料理の店藤半として復活させた。客が褒めちぎる料理の旨さはもとより、店内の随所に絵画が飾られ、内装は洋食レストラン風というユニークな設えもあいまって店は人気を博した。その後、實氏は奥様と共に36年間営業を続けたが、令和元年(2019年)6月に惜しまれながら閉店。安永から令和まで、胡半そして濤聲帆影楼の245年以上も波瀾の歴史の旅が、静かに終わりを迎えたのだった。
vol. 05 そして令和二年
「濤聲帆影楼」の波乱に満ちたドラマと、帆布の生産地としても隆盛を極めた尾道のイメージを礎にした宿を創るプランが発起されました。屋号は、昭和初期の書家である帆聲が鞆の浦仙酔島に滞在した際に残した書から名付けらた姉妹館 “汀邸 遠音近音” との縁も鑑みて「おのみち帆聲」と命名。郷愁と旅情あふれる久保地区に佇む新たなおもてなしの物語と浪漫に、どうぞご期待ください。
2020.12.27 Grand Open